神社・古墳めぐり / 尾張の式内社めぐり / 物部神社

物部神社

式内物部神社については、従来、名古屋市東区に鎮座する物部神社とされている。

ただ、この地は愛智郡ではなく、山田郡と推定されてもいて、異論もある。

所在地は、愛智郡物部郷にあったと考えるのが妥当であるが、その地の推定域は明確ではない。

尾張国にある、物部氏が本拠とした地域は、愛智郡の物部郷と春日郡(かすがべぐん)の物部神社付近の二か所がある。

【所在】

名古屋市東区筒井(石上本町)3-31-21に鎮座する。

JR千種駅の北約400m、桜通りに面してあり、建中寺の東南にあたる。

【由緒】

創祀については、詳らかではない。

社伝によれば、垂仁天皇(11代天皇、景行天皇の父)の時に始めて祀られたと伝えられている。

江戸時代の元禄年間(1688~1704)に藩主徳川綱誠(つなまさ)が荒廃していた社殿を新たに建立した。

明治初年に式内社に治定された。


【祭神】

物部氏の祖、宇摩志摩遅命(うましまじのみこと)を祀っている。

宇摩志摩遅命は、尾張氏の祖、天火明命(邇藝速日命)を父、長髄彦の妹、御炊屋姫(みかしきやひめ)を母としていて、、天道日女命を母とする尾張氏二代目の天香語山命とは異母兄弟になる。

「大石(通称、要石)」をご神体とするところから、石神神社、石神堂などとも称され、社伝によれば、この大石は神武天皇がこの地を平定した時に見つけた石で、これを国の鎮めとしたといわれている。


拝殿の斜め西向いに、「物部白龍社」の鳥居と社殿がある。
 

境内の東側には、大国主の石像が祀られた大国主之命の社がある。


そして、名前の表示されていない社と一番端に真新しい「物部天神社」が並ぶ。


【社殿】


社殿は南向きに建つ。

本殿は神明造りのようにも見えるが、流造りらしく、千木・鰹木が載る。


拝殿内に立てられた幡や賽銭箱に橘の神紋が見られる。

 

「橘」というと、不老不死に憧れた垂仁天皇の命令で常世の国に往き持ち帰ったとされる田道間守が連想され、田道間守は新羅からやってきたという天日槍の子孫ということで、新羅へと繋がっていく。


拝殿屋根瓦には神紋は見られないが、簡素な懸魚にはハート形の透かしがはいっている。


【参拝記】 

2010年10月31日、春日井の日本武尊ゆかりの内々神社へ行くとき、中央線高蔵寺駅からでているバスが一日数本しかなくて、12時すぎのバスがあるので、地下鉄で千種駅まで行き、そこで中央線に乗り換えるため、その千種駅の近くに物部神社があるので午前中時間もあることだし、まずはそこに寄ることにした。

物部神社は千種駅の北、ビルの立ち並ぶ街並みを歩いて5分ほどのところにあった。

神社は町中にあるが、境内は思ったより広く、保存樹のケヤキなど、大木も茂り、いい雰囲気だ。


物部氏ゆかりの神社ということだが、この神社は、「石神(いしかみ)」を祀っているいるということで、ふと思ったのは、物部氏の総氏神の「石上神宮(いそのかみじんぐう)」の「石上(いしかみ)」の語呂合わせで明治になって物部神社に比定されたのかな、と。

ここからちょうど真北の方向に、北区の宇麻志麻治命を祀る「味鋺神社」が、そしてもう少し北に春日井市の物部神社があったという味美二子山古墳があり、その物部神社を移して合祀されているという白山神社が味美白山神社古墳の上にある。